フォーマット
雑誌のように #01
グラフィック・エディトリアルデザイナー、YYY PRESS主宰の米山菜津子による月1回連載「雑誌のように」。毎月第1水曜17:00に配信します。
フォーマット
雑誌のように #01
text and photograph by Natsuko Yoneyama
デザイナーとして初めて名刺をつくってもらったとき、自分の名前の上に「デザイナー」と書いてあることに強い違和感があった。まだ何もできない自分への期待と不安が入り混じった気持ちで、「必死に仕事を覚えなくては」と自分を奮い立たせたことを覚えている。
その職場は、当時30〜40人くらいのスタッフが出入りする中規模のデザイン事務所で、雑誌の仕事をメインにしており、「雑誌一冊まるごとデザインする」のが会社の方針だった(逆に言えば、それまではそうでない場合が多かった)。
ひとりの人が全体と細部に責任を負うと、誌面に通底するトーンが敷かれる。雑誌の編集長が内容に関してそれをやる人だとしたら、アートディレクターはその視覚的な部分においてそれを担当する人だ。さらにひとりのアートディレクターの下にデザインスタッフが何人かいる、というそのやり方は、広告デザイン的なチーム編成を雑誌にもち込んだものだったといえる。雑誌にそういうブランディング的なやり方を持ち込んだのは当時日本では新しい潮流だったはずだが、それを批判する向きもあった。
トップダウンでコントロールされた誌面から失われるものはたしかにある。けれども、自分はその事務所がつくっていたミニマムな誌面に憧れがあったので、当時はそんなことは露ほども考えなかった。ボスが指示を出し、先輩がつくったフォーマットを使用して、ただただ図版と文字を配置していく。飾り罫や複雑な色を使うことはそこでは「ダサい」こととされており、最小限の要素で情報伝達を達成していくのが良しとされていた。使う書体や文字組みも日本語に関してはあらかじめ決められていた。見出しにアイキャッチとして欧文が積極的に使用されていたが、それも特集に合わせてある程度はチーフデザイナーが決めるという段取りだったので、ヒラのデザイナーが担当するのは主にパズルみたいにピースをはめていく作業だった。
その作業が、新人デザイナーとしての自分にはすこぶる面白かった。同じフォーマットを延々と使い続けることは、一見地味で思考停止したかのような作業に思えるかもしれない。だが、同じフォーマットを使用しても、デザイナーの腕で誌面の「見え」が歴然と変わることがすぐわかるようになった。
上手い下手がまずある。さらに上手いのなかにも違いがある。あの人が組むと誌面がぴしっと決まる。あの人だと何か人の気持ちをわくわくさせるようなページになる。あの人だと丸っこい印象になる。つまり、微差のなかにニュアンスの違いが見えることがわかるようになってくる。同じフォントで同じマージンで同じ色づかいなのにだ。
そういう訓練を繰り返していると(それはまさに訓練のようだった)、本屋に並んだ本をぱっと見て、どの装丁者の仕事なのかをあてられるようにもなっていった。ある潮流を生み出したオリジネイターの仕事と、そのフォロワーとの違いなどがわかってくるのも面白く、一時期はそれをチェックし答え合わせをすることを目的に本屋に通っていた節さえあった。
同じフォーマットといえども、まったく同じ素材で構成されるページはない。文章や図版の内容は常に違っている。訓練の結果、素材の内容をより慎重に吟味するようになる。どの素材をどう並べたら最も適した状態になるのか。フォーマットには常に少しの自由度(バッファ)がある。それをどう使うのか。
タイトルの語感に勢いがあればそれを生かすように写真の上に載せたらいいかもしれない。端正な写真ならまわりにたっぷり余白があったらいいのかもしれない。それが10ミリなのか18ミリなのか13.25ミリなのか。ディスプレイの上で要素をウロウロさせていると、「ここだ」というポイントが見つけられるようになってくる。素材が発している意味と見た目の情報がぴたりと収まるバランス。そこに至るまでの試行が100回なのか1000回なのか。仮置きをするたびに決断を迫られる。ディスプレイの前に座ってルーチン作業をしているように見えるデザイナーは、常に断続的な否認と承認の判定を行っている。
フォーマットのなかに細部が見えてくる。話はそこからだった。しかしそんな、自分が面白いと思っているレイアウトという作業は、世の中でだいぶぞんざいに取り扱われていて、それにもどかしさも感じた。業界の一歩外を出たら、雑誌のデザインをやっていますと言うと「?」という顔をされる。そこまでではなかったとしても「表紙のデザインをしている」と理解されがちだった。どうも中身は自然と出来上がってくるものだと人は考えているようだった。
中身が自然と出来上がっているように感じられるということは、裏を返せばそれがうまくできているということでもある。いい設計は存在感を消すものだ。電車が何の狂いもなく運行しているときにダイヤグラムの出来について考える人はほとんどいないが、事故で乱れたダイヤに遭遇するとそれがいかにうまく設計されていたかに気がつくのと同じで、デザインがいいと思わせてしまうものは本当はあまりうまくいっていないということもありうる。なぜかわからないけれど何かいい体験をしたな、とか、それ自体が何となく魅力的だなと人に思わせてしまうとき、デザインはうまくいっている。徐々に自分はそう考えるようになっていったのだが、そうした密やかなデザインのなかにも人は意匠性を見いだしてしまうものらしく、シンプルなデザインがおしゃれだからシンプルなデザインを採用するといった倒錯も起きてしまう。
最近のグラフィックデザインの潮流として、そもそもフォーマット化を目指さない「アンフォーマット」とでも名付けられそうな考え方がある。ルールやグリッドからいかに逸脱するかという問いをさらに進め、そもそもグリッドを意識しない(ように感じさせる)、フワフワとした脱中心的な振る舞いをデザインする傾向があるように見受けられる。デザインのためのツールが発達したおかげで2D的要素を操ることが簡単になり、そこから擬似的な奥行きを獲得するための3D的表現がかつてほどの労力をかけずにできるようになったこともあるのだろう、重力を感じさせない視覚的な効果が増えている。
それがもたらす効果は一体何を批判し、何を寿いでいるのだろう。その表現に自由さを感じつつも、その一方でアンフォーマットが定型化し、崩し方のフォーマットが早くもできつつあるように感じることもある。フォーマットからさまざまなことを学んだ身としては、納得感もあるが同時に寂しさを感じなくもない。これは今後どうなっていくんだろうと思いながら観測している。
米山菜津子 | Natsuko Yoneyama
グラフィック・エディトリアルデザイナー。1981年東京都生まれ。2003年より活動開始。デザイン事務所CAP、 PLUG-IN GRAPHICを経て2014年にYONEYAMA LLC.を設立。展覧会のグラフィック・図録デザイン、書籍の装丁、ファッションブランドのビジュアルディレクションなどを手掛ける。2015年に立ち上げた出版レーベルYYY PRESSでは、オムニバス書籍『GATEWAY』を不定期で発行しながらアーティストと協働して作品集などの企画・編集・デザイン・出版を行っている。
次回の配信は9月2日の予定です


